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血の金曜日事件 (1972年) : ミニ英和和英辞書
血の金曜日事件 (1972年)[けつ, ち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [けつ, ち]
 【名詞】 1. blood 2. consanguinity 
: [きん]
  1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr) 
金曜 : [きんよう]
  1. (n-adv,n-t) (abbr) Friday 
金曜日 : [きんようび]
  1. (n-adv,n) Friday 
曜日 : [ようび]
 【名詞】 1. day of the week 
: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
: [こと]
 【名詞】 1. thing 2. matter 3. fact 4. circumstances 5. business 6. reason 7. experience 
事件 : [じけん]
 【名詞】 1. event 2. affair 3. incident 4. case 5. plot 6. trouble 7. scandal 
: [くだん, けん]
 【名詞】 1. matter 2. case 3. item 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

血の金曜日事件 (1972年) : ウィキペディア日本語版
血の金曜日事件 (1972年)[けつ, ち]

血の金曜日事件(ちのきんようびじけん、)はIRA暫定派によって1972年7月21日ベルファストで引き起こされた一連の爆破事件である。80分間に20発の爆弾が爆発し、9人の死者(うち2人は英国軍兵士)と130人の負傷者を出した〔Northern Ireland Office news-sheet . Conflict Archive on the Internet (CAIN)〕。爆弾の多くは車爆弾であり、同日に爆発地点に直接運転され運び込まれた。
爆破の一部はIRAとイギリス政府の交渉決裂に対する報復として行われた。1969年にIRAの運動が開始して以来、IRAは北アイルランドの経済的、軍事的、政治的な標的に対して、協同して爆破テロ行為を行ってきた。IRAは1972年にはあわせて1300件の爆破事件を起こしており、血の金曜日事件を契機として、10日後にイギリス陸軍モーターマン作戦を開始した。
==概要==
1972年6月下旬と同年7月上旬に、ウィリアム・ホワイトロー率いるイギリス政府の派遣団がIRA暫定派のリーダーと秘密裏に交渉を行った。交渉の一部として、IRAは6月26日からの一時停戦に同意したが、IRAのリーダーは平和的な解決を望むとして、英国政府の1975年までの北アイルランドからの撤退と共和国軍囚人の解放を要求した。しかしながら英国政府は要求を拒否し、交渉は決裂した。その後、7月9日に停戦が破られた。
血の金曜日事件は、交渉決裂に対するIRAの報復として起こった。IRAの参謀長であるショーン・マック・スティオファインによると、爆破作戦の目的は経済的な損失を与えることであった〔"Bloody Friday: What Happened" . BBC News, 16 July 2002. Retrieved 7 March 2011.〕。この事件は「IRAは要求が受諾されない限り、経済的な大損害を引き起こす準備があり、その意思もあるというイギリス政府へのメッセージ」であった〔Maloney, Ed. ''Voices From the Grave: Two Men's War in Ireland''. US: Faber & Faber, 2010. p.104〕。この事件を、6カ月前にロンドンデリーで発生した血の日曜日事件に対する報復でもあるとする見方もある。血の金曜日事件における爆破テロはIRAベルファスト部隊員によって実行され、主犯は部隊の司令官であるブレンダン・ヒューズであった〔。あわせて26発の爆弾が設置され、爆発により11人が死亡、130人以上の市民が負傷し〔、多くの負傷者が恐ろしいことに手足を失った〔。爆破事件の最中、ベルファストの中心部は、「まるで大砲の集中砲火を受ける街のようでした。次から次へと爆発が起こるにつれて、息が出来なくなるような煙が建物を包み、パニックに陥る買い物客たちの甲高い悲鳴をほとんどかき消してしまうほど」であった〔Moloney, ''A Secret History of the IRA'', p.116〕。負傷者のうち77人は女性と子どもだった〔Moloney, ''A Secret History of the IRA'', p.302〕。
ベルファスト部隊は犯行を認め、警察には爆弾の爆発前に地元メディアを通じて警告していたとし、ベルファスト部隊は、出版社とサマリア人協会、 公衆保護機関には「それぞれの爆発の少なくとも30分から1時間前には爆弾の場所を知らせていた」と主張した〔"Bloody Friday 'never forgotten' by victims" . UTV News, 19 July 2012. Retrieved 19 July 2012.〕。マック・スティオファインは「爆破地点から即座に人払いをするのであればメガホンをもった一人の男さえいれば十分だ」と言い、死者を出した2発の爆弾についての警告は「戦略方針上の理由」のためイギリス政府によって意図的に無視されたと申し立てた〔。警察はいたずらの通報も受け取っており、そのことが「市街に混沌をもたらした」〔Bloody Friday: Summary . Conflict Archive on the Internet (CAIN)〕。爆弾が爆発する前に、王立アルスター警察 (RUC) と イギリス陸軍が十分に市民を避難させることができたのは、一部の地域のみであった。加えて、大量の爆弾がベルファスト中心部の限られた地域に設置されたため、一つの爆破地点から避難した人々が誤って別の爆弾の付近に避難してしまうことがあった。
爆破事件の30周年記念の準備期間に、IRAは死傷したすべての民間人の家族に公式に謝罪を発表した〔http://cain.ulst.ac.uk/events/peace/docs/ira160702.htm〕〔"Q&A: The IRA's apology" . BBC News, 16 July 2002.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「血の金曜日事件 (1972年)」の詳細全文を読む




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